年間第30主日(B年)の説教=マルコ10.46~52

2015年10月25日

イエスの心小学校の遠足、運動会等、たのしいものでした。何故って、大好きな卵焼きがおかずの中に入っていたのです。いつもは食べることができないものでした。それは、それは、前の日になると、嬉しさのあまり眠れないほど、・・。こうしたわくわく感は、大人になるとあまり体験ができないのはわたしだけでしょうか。

今の子どもたちを見ても、運動会の前、クリスマスの前などは、その顔色が輝いています。大きくなって、そのころのことを思い出すとき、今のわたしのようになるのでしょうかね。

とにかく、人は嬉しい時、楽しい時の自分を、一人ひとりの程度の差こそあれ、みなが等しく体験していることです。それによって、豊かな人間性が育っていきます。そして、イエスさまもまた、わたしたちと同じ人間性を引き受けられたのです。それは、神の思いやり、やさしさをイエスさまの人間性を通して、人にそそごうとされる神の意志を感じさせます。つまり、人間の悲しさ、傷つきやすい人間性の弱さを、イエスさまも背負い、思い悩み、迷うわたしたちを思いやる生き方を選択されたのです。

今日の福音は、イエスさまの人に対する生の姿を如実に物語っています。生活能力のない、したがって、社会の隅に追いやられてしまっている彼の叫びは、明らかに命がけのものであったはずです。そうした人々の心の叫び、生きることを半ばあきらめかけている人の失意に敏感になって寄り添うイエスさま見ることができます。

自分の前を通り過ぎて行かれるイエスさまを見て、叫び続けるその人に心を止め、かれを呼び寄せられます。側近にいた人々は、目の不自由な人の叫びを黙らせようとしますが、・・。しかし、同じ叫びを聞いたイエスさまは、彼の悲しみ、痛み、恥ずかしさ等、すべてを一瞬のうちに見抜かれます。だから呼び寄せられたのです。

その前に、癒される人の「勇気」も評価されます。黙らせようとされたということは、人々からは、一般的に歓迎される存在ではなかったということです。その環境の中で勇気を振り絞ってイエスさまの前に出たのです。自分のすべてを開き、ありのままを見てもらう決意があったのです。だからこそ、イエスさまに通じたとも言えます。

今のわたしたちも、叫び続けるのです。願い続けるのです。そして、ありのままをイエスさまに訴えるのです。人の非難をする前に、自分の罪をそのまま差し出すのです。いくら格好をつけようとしても、通りません。「ありのまま」がいいのです。

どんなときにも「謙虚」であり続けたいものです。