年間第29主日(B年)の説教=マルコ10.35~45

2015年10月18日

イエスの心「『身の丈に合った暮らし方』をするということが、実は最大のぜいたくで、それをわたしたちは分際(ぶんざい)というのであり、それを知るにはやはりいささかの才能が要る。分際以上でも以下でも、人間はほんとうには幸福になれないのだ」と言うのは、「人間の分際」を著した曽野綾子さんです。「財産でも才能でも、自分に与えられた糧や質の限度を知りなさいということなのだ」と説明されています。

わたしたちは一人ひとりタレントをいただいています。それを駆使しながらより人間らしく、豊かな自分を養成していきます。そのためにも、わたしたちの中にある「欲」は前進するために大事な力となっています。その「欲」が時には予想もしない形で意識される時があります。

俗っぽい野心、権勢欲、ライバル心となってわたしたちを突き動かします。こういう時は、得てして自分の欲望を満たすだけで終わってしまいます。そして、他者の言動に気付く余裕などないのです。何か影響があったとしても、表面をすべり抜けるだけで、自己陶酔型に終わってしまいがちです。

今日の福音の弟子たちは、まさに、人として、さらにイエスさまの弟子として、あさましい姿をさらけ出しています。二人の弟子たちに出し抜かれたと思ったのでしょうか、小言が絶えません。いつも、イエスさまの言葉と行いを見てきた彼らでさえこのようであれば、イエスさまの人間に対して期待する心はいかに痛手を受けたことでしょうか。無理だとお考えになられたのでしょうか。しかし、牧者のいない羊のような人間のありさまをご覧になって、人間をあわれに思う心が動き出したのです。

「あなたがたのうちで偉くなりたい者は、かえってみなに仕える者となり、また、あなたがたのうちで第一の者になりたい者は、みなの僕となりなさい」と。つまり、「仕える」とか「僕」という言葉は、人の幸せのために尽くすことを求めている言葉ではないでしょうか。いわゆる、「自己陶酔型ではなく「自己犠牲型」です。

つまり、自分の利益、権利を放棄することです。とは言いましても、大事なことは他者への「寛大さ」と「あわれみのこころ」でしょう。そうなってこそ「神の似姿」としての人間の威厳が輝きを放ってきます。

こう言いますと、何か「大それたこと」をしなければいけないような感じになってしまいがちです。そうではないのです。「日常性」の中で、小さいことを積み上げていくことです。親は親として、子どもは子どもとして、女は女として、男は男として、背負うべきことを背負い、「今日」を生き抜くことです。イエスさまがともに担ってくださるからです。だから、「自己犠牲」の意味があるのです。

「他の人のしあわせのために」奉仕すること、これは、一人ひとりにとって「人としての分際」(役割)であるといえないでしょうか!?