年間第27主日(B年)の説教=マルコ10.2~16

2015年10月4日

イエスの心先日、一組の男女が結ばれ、新しい夫婦が誕生しました。このカップルは世界にたった一つの夫婦です。いくら似通った家族があるとしても、どの家族も世界に唯一のものです。この家族の違いが、生きることの楽しさを倍加させてくれます。人としても、家族としても豊かになっていきます。日毎に、生きる喜びがふくらんでいきます。

ある方が冗談交じりで言われたことがあります。「結婚前は、ふたりはどんなにしても互いに近づこうと考えていたのに、結婚してからは、いかにして離れようかと考えている」と。結婚後は、互いに獲得しあえたので(?)、「求心力」が減退してきたのでしょうか。そうではないでしょうが、安心しているのでしょうね。

いずれにしても、生まれも育ちも全く違う二人が、同じ屋根の下で過ごすということは、昔も今も、その難しさにそうそう違いはないのではないでしょうか。しかし、難しさだけを言うのも片手落ちのような気がします。楽しさ、やさしさ、嬉しさだってあります。後者のほうが、わたしたちの記憶に、印象に残りにくいだけなのです。そして、苦しいことのみ多かりき、の気分になってしまうのです。

「こんなはずではなかった」という現実が目の前に突き付けられたとき、お互いがそう感じていると思ったほうが良い、と経験者から聞いたことがあります。そうすれば、互いが背負うだけの成熟した力が与えられるのです。これが結婚しているからこその二人の力なのです。

今日の福音はそれに水を差すような「夫は妻と離婚してよいか」ということが問題になっています。結婚は「永遠」を誓い合ったはずなのに。わたしたちは有限の存在でありながら、また、弱さと利己主義の塊みたいな存在者でありながら、永遠の愛を誓い、永遠の安らぎを志向しているのです。

この姿の中に、「神の似姿」としての人間の尊さがあるといえます。それは神への道です。神とともに安住できる世界に向かうものです。それも、日常の人間社会の営みを通してです。仕事、趣味等、通常、特別な意識もなく実践している営みの中で、・・自覚されているでしょうか。

今日の福音は、「離婚」を言いながら、男女の絆の素晴らしさを伝えているといえます。「神はご自分に似せて人を造られた。人を神のかたどりとして、男と女に造られた」「人は父母を離れて女とともになり、二人は一体となる」創世記2章を引き合いに出し、結婚の神秘を語ります。

二人は永遠の愛の契りをかわします。「永遠の愛」の根拠は、その死をもって愛の理想を示してくれたイエスさまにあります。誓った愛を生きようとする二人とともに、イエスさまは歩まれるのです。