年間第26主日(B年)の説教=マルコ9.38~43、45、47~48

2015年9月27日

イエスの心わたしの全く偏見的な、独断的な見方です。自分も含めて、日本人は物事を否定的、悲観的に見てしまう傾きがありはしないか、ということです。

わたしたちの周囲にある広告看板、忠告看板等の文章表現を見てみますと、「散らさない、壊さない、汚さない」「煙草を投げ捨てない」「廊下は走らない」等、否定的表現が多いように思います。これは、思考の傾きを言い表しているのではないかと思ってしまいます。

子どもが何か良いことをしたとき、その行為をほめてあげるのはいいとしても、もう一声ほしいなと思います。それは「お母さんは嬉しかったよ」と、そっと言ってあげることです。この一押しが日本人は足りないのかなと思っていますが、・・。

ちょっと偏った見方になりますが、こうした否定的な言動が日本人の「創造力」の育ちを減退させているのではないか、本番になると弱さを露呈してしまう結果を招いているのではないか、という考えを持ってしまいます。

ところが、今日のマルコ福音書に登場している弟子たちは、自信満々の姿を見せてくれます。自分たちはイエスさまに選ばれ、身近にその教えを聞き、生活を共にしてきたという「特権意識」がギラギラしています。

明らかに人間的な気持ちが優先しています。そこから出てくるのは、イエスさまを王としてまつり上げようとすることです。あくまでも、人間の世界における「救い主」のレベルを超えることなく、したがって、イエスさまのメッセージを全く理解していなかったのです。

まことの救いを願うということは、人間的な面子に左右されることではありません。もっと普遍的であり、弟子たちが思い作る世界観の中におさまるものではないでしょう。また、自分たちが満足するかどうかという、自己満足的なものでもないはずです。大事なことは、相手を救えるかどうか、それも、自己アピールをする意向ではなく、純粋に相手の救いを願っているかどうかです。

「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」という言葉は、わたしたちの日常の中で、わたしたちがどのような人に囲まれているのかに注意を払うようにと呼びかけています。

そして、イエスさまにしたがう者とそうでない者との線引きをしたがります。それも、周りにいる人々の中にしてしまうのです。むしろ、自分の中に見つめてみたらどうでしょう。厳しい線引きの基準を自分の中に持ってやいないか、自分を直視してみたいです。

弟子たちが「特権意識」から謙虚になっていったように、わたしたちも「否定的言動」から解放されることを願いつつ、周りの人に注意を払えるようになりたいものです。