年間第14主日(B年)の説教=マルコ6.1~6

2015年7月5日

message-eyecatch2世の中のしきたり、慣習等、それを知らない人にとっては、瞬間的とはいえ、かえって「躓き」になってしまいそうな経験をお持ちの方も多いのではないでしょうか。とはいうものの、社会生活の潤滑油になることもあります。

例えば、子どもの頭をなでる行いは、日本ではごく普通に見られる姿です。ところが、外国のある国では、頭は「神さまが宿るところ」なので人の手で触ってはいけないといいます。文化の違いからくる「躓き」もあり得ます。

とにもかくにも、わたしたちの生きている現場は、何かと不自由さがついて回ります。しかし、それは生きている限り大前提としてあることです。それを踏まえたうえで、表現はよくありませんが、お互いをどれだけうまく「利用するか」です。わたしたちの存在がいつも外に開かれたものである限り、人のために役立つ存在なのです。それをいかに自分の成長のために生かせるかです。現に、わたしたちはお互いのお世話に与って今の「わたしたち」があります。

こうした生き方、日常が安定して、とっぷりとつかりきってしまいますと、新しいなにかにとりかかることが面倒になったり、不安になったりします。つまり、日常性を脅かすものには、逆に警戒してしまう態度をとったりします。そのことに自分自身を開くことができないのです。開かれて初めて今までと違った奥にある真実に到達できて生きてきたのに、あまりにも「安定した日常性」が邪魔してしまいます。

今日の福音では、イエスさまが弟子たちに敢えて日常性の打破に挑戦しています。ペトロをはじめとする弟子たちは、常識の壁にぶつかりながらも、イエスさまが差し出すメッセージに自分を委託していきます。

はじめからすぐに完全委託にたどり着いたわけではありませんでした。イエスさまの十字架の受難を前にして、弟子たちは恐れおののいて逃げ去ってしまったのです。自分たちの師がいなくなるという出来事を前にして、逃避してしまいました。

それでも、わき道にそれ、ふらふらしながらも、「日常の世界」から得ることのできない「何か」に飢えていた弟子たちでした。それがあったからこそ大きな「ぶれ」もなくイエスさまの真の姿に触れることができました。救いを見出し、完全な委託がなされていきました。

日常の安定性はだいじです。でも命はうごめいているのです。止まっていません。だからこそさらなる挑戦が求められます。そこにイエスさまの真意が見えてきます。日常性をうまく使いながら一歩前へ進みましょう。