聖霊降臨(B年)の説教=ヨハネ20.19~23

2015年5月24日

message-eyecatch2どこの国の人にとっても酒は、飲むことができる人にとってはリラックスできるひと時を与えてくれます。飲みすぎは逆効果かもしれませんが、適量だと健康にもよいとまで言われます。ある人にとっては、酒の威を借りないと(?)自己主張ができない人もいるようですが、その人の本音が聞ける時として貴重な時でもあります。同じ思いを共有できる仲間が寄り合うと、楽しさも倍加します。安心できる同志の中で食事もおいしくなるものです。

人は安心できる人といる時、信頼できる環境にいるとき素直になれますし、自分をそのまま出すことができます。そして、人をも安心させ、人を信頼できるようになっていきます。そこに人の成長があります。

今日は聖霊降臨の主日です。使徒団は一同に集まり祈っていたといわれます。どうしてか?実は、ユダヤ人が怖かったのでしょう。それを避けるために皆は同じ場所に集まったのでした。別の見方をしますと、使徒団は一人ひとりが同じ傷と痛みを感じながら、そういう自分をしっかりと受け止めて、自己確認ができるようになっていたのでしょう。

つまり、自分の弱さをしっかりと認めることができたのです。同じ思いを共有できていたのです。ユダヤ人を恐れ、世の権力者におびえ、臆病な人間の集まりだったのです。イエスさまから直接にその教えを聞きしるしを体験していたにもかかわらず、いざとなってはイエスさまについていけなかった弱虫な自分たち、・・。それが急激な変貌を遂げます。その背景にあるのが、自己の弱さに目覚めた弟子たちの祈りであり、それに続く聖霊です。

現代に生きているわたしたちも、弟子たちと同じように弱い存在者です。それでも、イエスさまの心を心として生きようという善意はあるのです。しかし、徹底したものではないことを日々体験しています。善意だけでは前に進めないということでしょうか。

あの使徒団が変わったのは聖霊と出会うことができたからです。それは神の働きであり、その神に出会う道は「祈り」です。しかも、絶望の淵から呼び起された「叫び」だったのです。だからといって、祈れば神の働きがすぐに感じられるかといえば、忍耐強く待たなければいけないかもしれません。いや、そのほうが多いような気がします。それでも、すぐに聞き入れてもらえない辛さに耐えながらも祈り続けることです。

聖霊降臨の日の弟子たちは、お互いの弱さ、傷を背負った身で支えあいながら「祈る」中にとどまり続けたのでした。救われたいという強い願望をもって祈ったのです。わたしたちの気づかないところで、少しずつ変えられていくのです。祈りのさなかに変えられていったのでした。神の働きは音もなくひそかにわたしたちに近づきます。

2015年5月24日=聖霊降臨(ABC年共通福音朗読箇所)
ヨハネ20.19~23

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなた がたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに 平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けな さい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」