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年間第6主日:重い皮膚病を清くされた人に、口止めをした理由とは?

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年間第6主日(B年)の説教=マルコ1.40~45

2015年2月15日

message-eyecatch2世の人間社会では、納得のいかない現象、出来事が次から次へと登場し、消え失せていきます。規則は大事ですが規則では説明できない人間の業もあります。つまり、人間にはその規則、規定を超えた「憐みのこころ」が備わっており、ひととひととの交わりをスムースにさせてくれます。

それ以上に、お互いの「人となり」の理解のために大きな力となってくれます。その上、人としての成長に大きく貢献してくれます。より多くの人と交わりを持つことは、その人をより豊かにしくれますし、相手の人をも高めていけるのです。人から人を隔離することは、その人が人間らしく生きることをゆるさないことですし、その人の人格を拒否することです。

今日の福音は、思い皮膚病を患っている人が癒される奇跡の話です。この種の病気については、旧約聖書に細々とした規定が載せられています。レビ記13章から14章にかけて出てきます。そこではこうした病人を「けがれた者」と呼んでいます。それでは誰がそのように呼ぶように裁定をするのかといえば、医者ではなく、祭司の務めになっていたようです。これから考えられるのは、その時代にあって、重い皮膚病は医学的な問題であるよりも宗教的な問題であったということです。

「あなたは汚れている者」と判定されると、一般の人からは隔離されて暮らさなければいけなかったのです。もちろん家族からも引き離されました。肉体的な苦痛に加えて精神的な苦痛までもがその人を追い込んでしまいました。もっと悪いことに、その人が大きな罪を犯したからそうなったのだと思われていたのでした。神さまからも見捨てられた存在者になってしまい、周囲からの冷たい視線を感じながらの毎日を送ることになります。

ところが、イエスさまのなさり方は当時の人とは違っていました。先の細々とした律法による差別をするのではなく、深い憐れみをもって病人さんを眺め、手を差し伸べられます。

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「清くなれ」という言葉によって、差別され疎外されていた生活、神からは見捨てられていなかったという実感、双方をいただき、社会復帰できたのでした。絶望感と孤独感に襲われていた生活から解放され、名実ともに救われたのでした。

イエスさまはただ「奇跡をおこなう人」ではないこと、神の憐れみと罪のゆるしを伝え、人々を救う方であることを理解するためにはまだ時間がかかります。したがって、その病人には「だれにも、話さないように」と言われます。

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