年間第3主日(B年)の説教=マルコ1.14~20

2015年1月25日

message-eyecatch2「お~ぃ、ヤス! ちょっと手伝ってよ」「はい、わかりました」。昭和29年夏休みの話です。当時の長崎教区長山口愛次郎司教様の声がかかりました。その声は続きます。「手伝い仕事が終わったら、昼飯食べに来なさいよ」「ありがとうございます」。「召し出し」ならぬ「飯だし」を受けることになり、それが「召し出し」だったのです。そして、今の「わたし」があります。

声がかかる時、場所、内容は違っていても、共通しているのは、自分が受ける側になるということです。そのときの心身が良好であると、素直に反応できるのでしょうが、そうでない時のほうが多いような気がしてなりません。

「いやぁ~、あの時はまいったよ。イエスさまったら、お腹がすいている俺に、『飯食べに来いよ』って言うんだもんな。あの言葉につられたよな」と、後々、言えるといいもんでしょうね。

召し出しを卑近な、身近に起こる言い方に置き換えて眺めなおしてみますと、わたしたちはたくさんの「声掛け」をいただいているようです。その人の「今」の環境に適った生き方の中で神は「わたしについてきなさい」と言われます。そして、その招きはきっと本人にとって愉快で、楽しい、魅力的なものに違いありません。何もかしこまったものではないのでしょう。誰にでも召し出しを受ける権利があるからです。この生き方が神の思いに沿ったものであるように祈りつつ前に進むとき、それは「召し出し」を生きていることになるでしょう。

今日の福音からもわかるように、「召し出し」には必ず「見て、呼びかけるイエス」の姿があります。召命のイニシアティブはイエスさまにあります。このことは、召命のために何の準備もしない者をも引き寄せる力があることを意味しています。

さらに、自分はこのような仕事をするにふさわしい存在ではない、ということはないのです。それを十分に果たすことのできる力をも用意してくださっているのです。「召命」を感じたとき、そこまでイエスさまに任せ切る心が、「わたし」にあるかどうかでしょう。

投げ入れられた福音の網の中に捕えられたのであれば、観念することでしょう。網の中でも、泳げる隙間は十分にあります。大事なことは、神の国の完成の時、投げ捨てられることのないように、イエスさまについていく(泊まる)ことです。自分自身を捧げものとして奉献できますように。