主の洗礼(B年)の説教=マルコ1.7~11

2015年1月11日

message-eyecatch2どのような仕事、それに伴う生き方にしても、長年が経過しますと「初心」がどこかに置き去りにされてしまいそうになります。そして、人生の「節目」が来ますと「初心忘るべからず」と言って、ねじの締め直しをはかります。

多くの方が同じような経験をなさったのかもしれませんね。人間であれば、時と内容こそ違え、大なり小なり、人生体験から受ける「生きる道筋」は同じようでないでしょうか。だからこそ、お互いがお互いに対して助けになるし、励みになるし、慰めにもなっていきます。だから、寄り添うことができます。単に、群れるだけではなく、刺激しあいながらお互いを尊重し、「わたし」の成長と前進がそこにあるのです。

特に、強いて言うならば、信仰共同体の中ではそうではないでしょうか。さらに、大人になって、入信の洗礼の秘跡をお受けになった方々にとっては、特に、互いに寄り添い信じることの大事さが見えているんだと思います。

幼児洗礼者にはそれがないというのではなく、ある程度意識しないとできないような気がします。独りよがりに陥りやすくなります。わたしだけでしょうか、・・。わたしも幼児洗礼です。

いずれにしましても、「洗礼を受ける」ということは、その人にとって、その生き方が決まる人生最大の瞬間です。同時に、周りの人たちも期待します。期待されるだけの一大決心だということでしょう。

今日はイエスさまの洗礼の主日です。イエスさまにとってもこの受洗の瞬間は、無視できない大事な時なのです。

特にマルコの福音書では「あなたはわたしの愛する子」という天からの声は、イエスさまご自身に向けられています。神はイエスさま自身がみずからの使命がなんであるかを確認してほしいという要求があるようです。イエスさまご自身に思い起こしてほしいという意図があるようです。

それはイザヤ書42章1節~4節です。それは民に代わり、イエスさまが死ぬことによってすべての罪をゆるす神の計画を、現実に現すこと、実現することでした。人の罪を担うためであり、その出発なんですよ、という天からの声でした。何というイエスさまの生きる道なんでしょうか。受洗の瞬間に、直に示されたのです。

わたしたちの受洗はどうでしょうか。あの時は燃えていたな、活力満点だった、素直に従順だった、思い出すことがたくさんあるのではないでしょうか。「初心忘るべからず」で、原点に気づくことでしょうか。何かの「示し」があったのではないでしょうか。今一度、イエスさまと一緒に、歩いてきた道のりを振り返ってみましょう。