年間第7主日(A年)の説教=マタイ5.38~48

2014年2月23日

message-eycatch小さい頃の話です。まだ小学3年生の頃、理由をはっきりとは覚えていないのですが、おそらくは、どうでもいいようなことで、友だちとケンカになったことがあります。その時、「お前の宗教の聖書に、『誰かが右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい』とあるだろう。頬を出せよ」と言われたことがあります。

これだけはしっかりと覚えているんですね。そこでわたしは殴り返してやりました。「倍返し」とまではいきませんが、・・・。「汚れ無きケンカ」ですね。

子どもの頃は、今でも同じようなことはあり得ますが、ことばの示す深いところまでわかりかねますので、ちょっとした場所ではケンカの文句にもなっていきます。 大人になってみると、人間社会は、あらゆる不法行為は償いと刑罰ももたらす、ということを原則として成り立っていることが分かります。ところが古の社会では、刑罰がややもすれば過剰報復になることが多くなることがあったようです。

せめて、「同害報復」を要求することによって、過剰報復を食い止めようとして「目には目を、歯には歯を」という表現で示されたというわけです。イエスさまが同害報復を勧めているわけではありません。 それを物語っているのが、45節以下にあるおん父の姿です。

他人の目、歯、顔を傷つけたとすれば、それに相当する償いを要求されます。この原則が今の社会生活の生き方の基盤となっています。ところがイエスさまは、社会生活(平和と秩序)の基盤を人間互いの権利だけにおくのではなく、天のおん父の心をお示しになるのです。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」のです。

いつも読みなれている(?) 個所だけに、さらっといきそうなんですが、ちょっと立ち止まってみると、悪人や正しくない人のことを、父が余計に心配しているような響きを感じてしまいます。何度も何度も悪人に、正しくない者に無視されながらも、彼らに配慮される父の姿には、滅んではいけないんだよ「君たちは」、という必死さが伝わってくるようです。

それは、悪いことだとわかっていても、手を染めてしまうわたしたちの現実をご存知の「父」だからこそ、伝わってくる内容であると思います。その極みが十字架の死に至るまでご自分を渡された独り子イエスさまです。イエスさまがご自分の権利を主張しようと思ったら、わたしたちへの救いの訪れはなかったのです。 「この世の知恵は、神の前では愚かなものです」真の知恵を求めて、・・・。