年間第6主日(A年)の説教=マタイ5.17~37

2014年2月16日

時代が進み、生活することが便利になり、困難さが消えていくにつれて、他方では、法律によって言動が制限され、本来の便利さを享受できないという、ある種、矛盾した現象が起こっている現代社会です。いつの時代もそうかもしれませんが、法律が後手に回り、先手を取ることはないようですね。別の言い方をしますと、人間は自分たちが発明・発見した便利な物品、法則によって縛られている「今」の生活ではないのでしょうか。

そもそも「法律」は人のためにあるのであって、もっとつき進めれば、人のいのちを守るため、人としてその人らしく生きるためにあるということができます。本来の姿でしょう。法によって人間の品位が落ちるようなことはあり得ないことです。

今日の福音書の中には、イエスさまの法に関する生活への適用について、意見(解釈)が述べられています。モーセの律法について、昔の人の解釈とは違ったイエスさまの解釈が展開されます。つまり、昔の人びとは実際の行為だけを考慮して解釈を試みましたが、イエスさまは具体的な行為がなされる前の思いに、解釈の重点を置かれます。言い換えますと、心の領域にこだわります。すなわち、すべての法の根源的な基準に触れておられます。

一つの「うそ」からは真実は生まれてきません。「うそ」からは、また、新たなうそが出てくるだけです。そして「うそ」に取り囲まれて、身動きできなくなってしまいます。本来の姿を見ることができなくなります。今の法律は、こうした役割を演じているような気がしてなりません。

わたし自身、未熟なカトリック信仰者としての自分に対して思います。自分が信仰に成熟した存在であれば、イエスさまの言う「根源的な基準」(イエスさまの福音)に裏打ちされた法で、わたしたちの周囲に展開されていく諸問題に、対応できるのでしょうが、・・。どうしても人間の知恵だけに頼ってしまいます。自ずと限界があります。信仰者と社会人との狭間で悩み苦しみます。これが現実です。

イエスさまの時代のみならず、今でも、たくさんの問題が出没します。出来事の解釈はどうなっているでしょうか。その出来事の処理をどうしているでしょうか。わたしたちの苦い経験の先にある、「人の知恵」ではなく「神の知恵」に気づくことができれば、身動きできない状態から解放されるのでしょう。「然り、然り」「否、否」。