年間第3主日(A年)の説教=マタイ4.12~23

2014年1月26日

「ことば」というものは、時代の流れの中で、世相の動向の中で、廃れていくものもあれば、新たに「新語」としてわたしたちの間に登場するものもあります。そして、新語の響き、意味するものもその時代の世相を背負って、自動的に付加されていきます。したがって、新語についてはその時代に居合わせた人にしかわからない深みと豊かさがあるのでしょう。「今でしょう!」という流行語も、同じことが言えます。林先生の顔、その表情、新語ができた社会環境等が、そのことばの中に込められていきます。この流行語を考えると、以下のことを感じます。

典礼暦は「主の洗礼」から年間が始まりました。祭服の色も緑色になりました。典礼でいう「年間」は、日常のことばに変えるならば、「通常・日常」という言い方になるでしょうか。

この「日常」、別の表現をすれば、「普段着」の姿がいかに大事なことなのかが、今日の福音では強調されています。誰にとっても、その人が生活する場所は、失敗成功を繰り返しながら成長する場であり、緊張する必要のない場であり、それでいて、大きなことが起こる舞台でもあるのです。

今日の福音では、イエスさまの呼びかけにこたえる弟子たちの姿が描かれています。弟子たちは「通常」、ごく「普通」に生活をしていたのです。漁師として網の手入れをしていました。彼らにとっては普段着の姿です。その場でイエスさまに呼びかけられました。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と。

平平凡凡な営みの中で、イエスさまと出会い、その招きを聴く場になったのです。ということは、何も特別な準備をして待っていたのではありませんでした。日々を精一杯生きることが、何事に対しても準備になるのだということを教えてくれています。イエスさまが呼びかけてくれるステージであり、わたしたちが応えるステージでもあるのです。それが日常、「年間」なのです。

つまり「平凡」がイエスさまの介入により「非凡」になっていくのです。このことを示してくれるのが、典礼暦の上で始まったのです。その始まりが「弟子の召し出し」だったのです。神の子が人間となった啓示の中身が、徐々に展開されていくのです。わたしたちの「日常」はイエスさまに一番近いところであるということができます。これを「日常的に」感じ取りたいですね。