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待降節第2主日:罪とは、神と人間との間に生じた「ずれ」のことです。

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待降節第2主日(A年)の説教=マタイ3.1~12

2013年12月8日

近年、天候が安定しません。日本は春夏秋冬のメリハリがはっきりしているのが、最大の特徴でした。そこで、季節の変化が急に来たりしますと、予測しない事態が、心身にまともに起こることがあります。それも、一人ひとりが違う生き方なので、個人差はありますが、・・・。つまり、同じ場所にいても、同じと思える環境にいても、互いの生きる世界は違うということでしょう。それが、人間の間の争いの原因にもなっていきますけどね。

同じ家族の営みをしていても、夫婦も、親子も、互いに想像できない世界で悩み、受け止めきれないでいることが、無理解と配慮のなさの原因になってしまいます。人が人として生き続ける限り、永遠に残る現象かもしれません。だからこそ、わたしたちは救いが、ゆるしが、その前に回心が必要になるのです。まずは神にゆるしていただき、人々、隣人にゆるしていただくのです。そして、回心の伴ったその喜びを携えて、自分の周りの人々をゆるしていくことが喜んでできるようになります。

洗礼者ヨハネはその先駆けとして荒れ野に出現したのです。人々は大いなる期待をもって、ヨハネのもとに集まってきました。ヨハネは回心の具体的な表明として、彼らに罪を告白させ、洗礼を授けます。

罪とは、神と人間との間に生じた「ずれ」のことです。人は神に背を向けていたからです。人間の世界でもよくあることです。お互いが見つめ合い、向き合っていないと、いつの間にか互いの間に「ずれ」が生じてしまいます。ヨハネは、人々を神へと向けさせようとして「悔い改めにふさわしい実」を結ぶように、人々を導きます。そのために荒れ野で人々を待ちます。違った世界に生きてきたヨハネと人々。その彼らが、共通した「荒れ野」で出会うのです。

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その昔、よく言われたことがあります。「司祭になって何が楽しいんですか。どこに魅力があるんですか。別世界の人のよう、・・・。」とはいわれても、人として誰かと「共鳴できる」ところは必ずあります。

イスラエルの人びとも、常識的考えからいきますと、信じられないほどの諸外国からの苦しみを体験しても、メシアの到来を待ち続けたのです。救い主が来るという希望を次の世代へと語り継いでいったのでした。歴代の預言者、ヨハネの言葉に神の「たしかさ」を見てとっていたのではないでしょうか。闇の中に届く一筋の光(メシア)にすべてをゆだねる生き方、それが彼らの真骨頂でした。そして、イエスさまとの出会いが始まります。

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