キリストの聖体(A年)の説教=ヨハネ6.51~58

2014年6月22日

message-eycatchかつて、わたしは40日余、はじめて入院したことがありました。熱は高いし、ついには声帯がはれあがって、声が出なくなりました。それにつれて、わたしの顔も膨れ上がったのです。それを見て、見舞に来て下さった先輩は、「エレファントマン」と言って慰める(?)やら、励ましてくれました。

わたしにとっては、初めての長い入院。はじめのうち一週間くらい、点滴だけでした。口から食物を食べられないということが、こんなにまで体力を落としてしまうものなのかも、初めての体験でした。栄養は満点でも、筋力は落ちていくんですね。どんなに貧しい食卓であっても、口から入れている限り、栄養の偏りはあっても、体力はどうにか維持されていきます。

肉体の体力に食べ物が必要なように、心(信仰)の体力にも栄養が必要です。一日の三度の食事は、人にいわれるまでもなく、自ら食事に行きます。体が要求している実感があるからでしょう。これは生きるために、内面から湧き出てくる「自然の法則」みたいなものです。自分の意志とは関係なく出没します。

今日は聖体の主日です。心(信仰)の糧としての「聖体」を暗示させる福音です。聖体の秘跡を定められた「最後の晩餐」を想起させます。ご聖体を食べ物としてイエスさまはわたしたちに示されました。「わたしは天から降ってきた生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」。さらに「パン」とは「わたし自身だ」と言われます。次のことばがそれを示しています。「わたしが与えるパンとは、世を生かすための、わたしの肉のことである」(51節)。

多くの人びとは、「これは難しい話だ」と言ってイエスさまのもとから離れていきます。ある意味、もっともなことかもしれません。しかし、十二使徒はイエスさまのもとに留まり、イエスさまのことばを信じていきます。わたしたちもそうありたいものだとつくづく思います。

わたしたちの「いのち」は、与えられたものだからです。自分の意のままに病を退けたり、安全安心を勝ち取ることはできません。与えられたからには、生かされているのも事実です。その与え主は、惜しみない愛情をもってわたしたちの命を守り抜こうとされます。その保証が「聖体の秘跡」であります。したがって、ご聖体は交わりの場、わたしたちを養う「主の食卓」ということができます。食べることは交わることです。