復活節第5主日(A年)の説教=ヨハネ14.1~12

2014年5月18日

message-eycatch「理想」と「現実」、「信仰」と「理性」、「個」と「社会」、このように並べますと、お互い反意語のような印象を受けてしまいます。意味合いからしますと、反義語といってもいいのでしょうか。

しかし、全く別々の、無関係な、真反対のことばどうしでもないような気がします。考えるまでもなく、これらは「わたし」の中にあって、ある時は励ましてもらったり、ある時は悩んでしまったりと、今の「わたし」を形づくっています。そして、「わたし」の中で統合され、一つになって初めて、その真価が問われるのではないでしょうか。

つまり、「わたし」がより豊かになっていくということです。とはいっても、わたしたちはさまざまな不安や困難を経験します。わたしの中で統合されないで、独立したままで独り歩きしてしまうからでしょう。

「一つになること」、わたしたちは誰もが、このことを求め、大事にして生きているのではないでしょうか。その意欲が強く、本気であればあるだけたくさんの人が一つになっていけます。「一つになること」、これ自体は目的?それとも手段?ですか。いわゆる、「ムーブメント」(動き、うねり)を大事にするあまり、その他のことは確認されないまま突き進んできたのではないかと感じることが、あまりにも多いような気がします。

だから、一つの“ブーム”で終わってしまうのです。その上、「人間の力」が最重点に置かれています。そこには、いつも「限界」という波が押し寄せてきます。

かつて、イエスさまはお祈りなさいました。「どうか、みんなを一つにしてください」(ヨハネ17章21節)「わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです」(ヨハネ17章22節)と。ここには、わたしたちを「父と子」の交わりの中に入れさせようとする、イエスさまの切実な思い、望みが込められています。自分と父とは一つであるということが、イエスさまの根底にあるゆるぎない主張です。

この招きにわたしたちは「イエス」なのか「ノー」なのか。 弟子たちの信仰は本物であるとはとうてい言えないでしょう。だからこそ、それまでにイエスさまは何回も弟子たちを励まし、元気づけてきたのですが、・・・。それでも、イエスさまはあきらめずに、弟子たちの信仰が本物となるように働きかけます。「わたしを信じなさい」と。

「信じる」ということは、信じる人々が「一つになる」ことなしには到達できない生きる目的です。信じさせていただくことに、イエスさまとの「同化」が実現していきます。これが楽しい同化なのか、そうでない同化なのか。「イエスさま的」になることは「一つになる」ことの中にあるようです。区別はあっても、分離はないのです。