受難の主日/枝の主日(A年)の説教=マタイ27.11~54

2014年4月13日

message-eycatch今日からいよいよ聖週間です。暦は毎年めぐってきますが、それを生きるわたしたちは、確実に変わってきます。その変わりようは、いつもプラスでありたいのですが、人間はどうしても悲観的な「自分」を見てしまいがちになります。まずは、この傾向から「脱出する」ことが、いの一番にすることでしょうか。それにしても、聖週間は、イエスさまの受難の話と苦しみの道のりをたどる期間となります。人は、自分の悲惨な姿を思いつめると元気をなくし、それこそ、生きる覇気を失って、自暴自棄になってしまいそうです。そして人は、大なり小なりそのほとんどが、これらのことを体験しているのではないかと思います。 イエスさまはどうなんでしょうか。

今日の福音を読む限りでは、苦しまれるイエスさま、闇においこまれていくイエスさまが強調されます。それも、かつては親しく語らい、イエスさまの教えを聴いていた人びと、祭司長、長老たちにそそのかされていった多くの善良な人々からです。追いやられるのでした。

逆の見方をしますと、人を追いやってしまう、陥れてしまう人間の醜さ、愚かさ、腹黒さが暴露されているともいえます。また、権力についている人の立場、地位を保つためには、無力なものを犠牲にしてでも守り抜こうとする利己主義が、身勝手すぎが露わになります。

これらは、今のわたしたちの中にも生きていることのような気がします。というより、生きています。だからこそ、今でもイエスさまの上に、わたしたちの身勝手な重荷がのしかかっているのです。そして、イエスさまは、今でも十字架の上で「ゆるし続ける」のです。

今日、改めて主の「十字架」を見つめ直してみましょう。だって、神はイエスさまを十字架から降ろすことをなさいませんでした。イエスさまは死なない神の子ではなく、死んで復活する神の子だったからです。この姿を見て、まず回心したのが異邦人の百人隊長や見張りをしていた役人たちでした。

いうまでもなく、彼らはユダヤ人ではなく、むしろイエスさまの刑に賛成派か無関心派かの人びとです。彼らはしっかりとイエスさまの「十字架刑」を見つめていたのでしょう。何を見て、何を感じて「本当に、この人は神の子だった」と告白できたのでしょう。はっきりとはしない何かを見ていたのに、彼らは「悲痛な叫び」を挙げるほどの状況にいなかったということができます。

イエスさまが「・・・自分を無にして、人間と同じものになられました」という時、わたしたちに共感できる方であるということです。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれます。ここに、彼らは吸い込まれていったのではないでしょうか。 わたしたちが落ち込んでも、悲観せず、前を向いて歩くようにとは、ここに根拠があります。感謝!