待降節第2主日(C年)の説教=ルカ3.1~6

2012年12月9日

寄り添うイエス今から40年余り前の話になりますが、いつの時代も絶えない事件ですが、その時にも悲惨な事件がありました。若い女性ばかりが、次から次へと殺害されたのでした。

その犯人(男)は死刑が確定するのですが、死刑執行の日の話です。わたしの先輩が教誨師としてその死刑囚を訪問していました。先輩の話です。
その日は、先輩は朝早くから死刑囚を訪ね、執行前に、平安な心を保てるように、必要ならばお手伝いしようと考え、現場に赴いたそうです。先輩が言うには、本人はいたって冷静。目をつぶって静かに正座していたそうです。

対照的だったのが、別件で逮捕、死刑囚となっていた一人の女性が、同じくその日に死刑執行をむかえたそうです。その人は、付き添いの係官に不満を吐き捨て、苦言をタラタラと並べあげて騒がしく、落ち着きがなかったようです。その騒がしさは死刑執行されて終わったということでした。

この二人の最後をどのように見るか。無責任な批判をできる立場ではありませんが、死刑の宣告をうけてからの二人の生活がどうであったのか、にかかっているといえないでしょうか。男性の死刑囚は、先輩から、そのつくりかたを習ったロザリオをせっせと何十本もつくったそうです。その背景には、自分がしでかしたことへの「悔いる心」が大きく支配していたものと思われます。そして、彼は被害者と神にゆるしを求めて続けていたのではないでしょうか。

今日の福音では、何もかも奪われたユダの人々のバビロンでの生活が、大変苦しいものであったことが紹介されています。バビロン王ネブカドネザルによって、奴隷としてバビロンに連行され、王をはじめとする指導者たちは殺されました。このバビロンの捕らわれは、ユダの人々に反省の機会を与えたのです。

捕らわれ以前は、イスラエルの社会は退廃し、乱れていたのです。わいろは横行し、金持ちは貧しい人々を踏み台にして私腹を肥やしていました。このようなことは、人類史からは消えていかないのでしょうか。目の前の現実の生活ばかりを追求し、完全に神を無視した生き方に終始していました。その実、神に救われ続けてきたにもかかわらず、・・・。

こうした苦悩の中での悔い改めがなされたのでした。絶望のどん底でゆるしを求めて神に向かい始めたのでした。しかし、ふるさと、エルサレムへの道のりは、「荒れ野」によって完全に遮られていたのです。

そして今日、その荒れ野に道が敷かれることが告げられます。それも神の先導によってです。神はやはり生きておられるのです。神のいつくしみが、苦悩のどん底でゆるされなければならない「自分」たちであることに気付き始めさせたのでした。

この自覚は、キリスト降誕に向けて、今の「わたし」にとっても大事なことのように思います。

目をさましていなさい!