主の洗礼(C年)の説教=ルカ3.15~16、21~22

2013年1月13日 

寄り添うイエス最近では冬の正月休暇を利用して、「ふるさと成人式」を執り行う地域、町が多くなったような気がします。幼なじみとともに、互いに成長した姿を見せあい、新たな決意をもってスタートするのもいい、大きな体験となるのではないでしょうか。

地域の行政も、そのことを応援していく姿が積極的だなと感じております。紋切り型ではなく、血の通った温かい交わりと集いになっていくことが、若者の将来を決めていくエネルギーになっていくことでしょう。

そして、それはふるさとを離れて独り立ちしていく独立の時ともなっていくのです。研鑽を重ねたうえで、社会に奉仕していく出発点でもあります。地元、親元を大事にするがゆえの旅立ちでもあります。

旅に出ると、たくさんの方との出会いが始まります。それも広い、大きい、深い関係が構築されていきます。それがまた、生きることを豊かにし、活力の源となっていきます。それが、気づいた時には「わたしのもの」になっていることを感じさせられることがあります。人々とのつながりの深さ、広さが豊かであれば、「わたしのもの」は他者への奉仕へと向かっていきます。

今日のイエスさまの洗礼の出来事は、「民衆とつながっていたい」というイエスさまの願いがあらわれた出来事であるといえます。ルカは、イエスさまがヨハネから洗礼を受けたことを指摘していません。民衆の受洗とイエスさまの受洗を並記しています。ここに、イエスさまが民衆と、罪の重荷に耐えかねている民衆と肩を並べようとされていた様子を、思いを表現しているのではないでしょうか。

ヒューマニストとしてのイエスさまがここにあります。この姿は興味ある内容ですが、大事なのはその根源は、神の意図にあるということでしょう。イエスさまを通してなされた神のみ業であるということです。したがって、洗礼を受ける必要はなかったにもかかわらず、民衆とともに洗礼を受けられたのでした。同時にそれは、罪に苦しむ民衆とともにいたいというイエスさまの愛であり、ぬくもりでもありました。

このイエスさまの姿に、日常、苦悩しているわたしたちへの慰めの呼びかけを感じることができるといいですね。