年間第5主日(C年)の説教=ルカ5.1~11

2013年2月10日   

寄り添うイエスわたしたち一人ひとりは、自分が置かれている生活環境の違いによって、自分の周囲に起きる出来事に対する感じ方、反応に影響が出ます。同じような感覚、反応はあり得ても、まったく同じなものはないでしょう。そこに、一人ひとりが神の前に尊い存在であることの証拠があります。違うからこそ一人ひとりの存在理由、尊さがあるのです。

日本人の子育ては、この個性を大事にしていないのかな、と感じさせられるときがあります。今、問題になっている「体罰」教育(?)は、選手一人ひとりの個性、良さが沈んでしまったままで終わってきたのではないでしょうか。過去における選手たちの中に、もっとすごいことができた選手もいたかもしれないな、と感じてしまいます。

「巨人・大鵬・卵焼き」の流行語が世に広がったころの大鵬関は、「天才横綱大鵬」という評判、言われ方を一番嫌っていたといいます。あまりの相撲の強さに、「天才横綱」の名を冠されたからでした。その実、努力の力士だったのでした。人間の世界では、その道に入るには、その人の決意と努力が必要になります。勉強にしても、その他何かを極めるためにもです。

ところが、信仰の世界では神からの「召し出し」が主になります。人間の努力とは無関係に、神が呼び出されるのです。アブラハム、モーセも同じでした。今日の福音に出てくるシモン(ペトロ)にしても、イエスさまが先に呼ばれます。それに対してペトロは「お言葉ですから、・・・」とこたえます。

どちらかといいますと、人間の常識の世界では考えられない対応です。ペトロは漁師としてはプロです。「イエスさま、魚を捕獲するには時ではありませんよ」と、素人のイエスさまに言うこともできたでしょう。しかし、これまでの漁師としての経験、苦労から得た魚とりの知恵をちらつかせるのではなく、「分かりました」と言って網を降ろします。自分の面子よりイエスさまのことばに賭けたのでした。人間の常識を超えたところに逆転の結末が待っていました。

そうです。信じること、イエスさまの弟子になることは非常識な行為ではなく、超常識の世界の行為なのです。人としての頑張りには限界がいつもあります。だからこそ、自分でいきり立つのではなく、「任せる、賭ける」ことの大事さもみなおしてみたいですね。

「信じること」は、一対一の個人的な呼びかけです。それは、「わたし」が生きる具体的なところにおいてです。家庭であり、職場であり、地域の生きる場です。そこでこそ訓練され、身についていく「賭け」の生き方です。