四旬節第1主日(C年)の説教=ルカ4.1~13

2013年2月17日

寄り添うイエス受験シーズンが到来です。「自分を信じて、・・・」「今までやってきたことに、勇気と自信をもって、・・・」受験に臨んでほしい、と受験生を励ます言葉が聞かれます。そして合格祈願のために神社に詣でる人も多いのではないでしょうか。
日本中で何人の生徒が受験するのか分かりませんが、願わくは、単に合格することだけでなく、その先にある目標の実現のために喜びたいものです。つまり、目指した学校に入学することによって、学業を積み重ね、その実りが自分のみならず、多くの他者、社会の発展に寄与することになるという確信と信念を忘れてはいけないのではないでしょうか。そうあってほしいです。個人主義、勝利至上主義が蔓延しつつある現代にあって、本来の人間を取り戻したいですね。

「本来の人間」とは何かといえば、わたしたちの人生は「神に向けられた」それであるということでしょうか。今日の福音の中で、「試み」の内容を見てみますと、わたしたちの日常生活でごく普通に、それでいて必死になって追及していることでもあります。

生きていくためには食べなければいけません。食することがいかに大事なことなのか、わたしたちは日常の中で分かっています。しかし、生きていく、食べていくことが、人生のすべてであると思っている人はいないでしょうが、そうだとすればなんとむなしいことでしょうか。

どうして?
だって、わたしたちが努力した分がすべて保証される約束はないからです。農家の人が精魂こめてつくりあげた田畑は、自然災害によって瞬く間に流されてしまうこと、毎年のことです。不況のあおりを受けて倒産する会社もあります。一人の小さな力では大きな波に巻き込まれてしまうのが落ちです。

そこでイエスさまはおっしゃいます。「あなたがたのうち、だれが思い煩ったかといって、寿命を一刻でも延ばすことができるだろうか」(マタイ6章27節)だから、「まず、神の国とそのみ旨を行う生活を求めなさい。そうすれば、これらのものも皆、加えて、あなたがたに与えられるであろう」(マタイ6章33節)と。

だからと言って、働かなくてもいいということではありません。食べ物を得るためだけの働きではなく、生きる範囲、幅は広いものであるということでしょう。わたしが生きるのは、わたしと、近くでは、わたしの周りにいる人のために役立つことなのです。それが「神に似せて創られた」わたしたち人間の真骨頂ではないのでしょうか。

わたしの生涯は自分のものでありながら、皆のものでもあります。このことをしっかりと自分のものにしたいものです。