四旬節第4主日(C年)の説教=ルカ15.1~3、11~32

2013年3月10日

寄り添うイエス「ペトロの使徒座空位」の新聞の見出しが目につきます。「地上での旅路の最後の段階を始める素朴な巡礼者」になる時であると、ベネディクト16世はその辞任にあたりお語りになりました。そして、「わたしは心を尽くして、すべての愛を傾けて、祈りのうちに、・・・教会と人類のために働きたいと願っています」と続けます。

「家長」のいないカトリック教会の毎日が続きます。でも、わたしたちが気づかないところで神はしっかりと配慮してくださっています。実は、この期間はわたしたちにとって「試練」の時なのかもしれません。試練の時だからこそ、「祈りのうちに、省察のうちに」正常な姿が到来する時まで、ベネディクト16世とともに待ちたいものです。

今日の福音では「放蕩息子」のたとえ話が紹介されています。二人の息子に期待し、本来の親子関係を構築しようとする父親の奮闘ぶりが伝わってきます。愛は名詞ではなく、動詞なのです。つまり、口先だけでいう名詞の愛ではなく、おなかをすかしているわが子に対して、そっと手渡すコッペパン一つで親の愛が伝わります。ことばは要らないのです。そして「動詞の愛は」その子の成長の大きなエネルギーとなって、将来のそのこの人となりに影響していきます。それも根本的な、最大の力を帯びてきます。

今日の福音の父親の行動は、まさに、「動詞の愛」ではないでしょうか。痛いほど弟の息子は父親の愛と温かさを感じたことでしょう。そして、兄のほうも、その後の兄の反応は記されていませんが、ハッピーエンドであったのではないかと想像しています。二人の息子に対する父親の態度は、自らが息子に近づいて行っているということです。この行動は、口で何回言っても届かない「説教」よりも、何十倍もの効果をもたらしています。

「けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる」
「守ってあげれば、子どもは、強い子になる」
「愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ」
いつの時代も、親は子の鑑です。
いつの時代も、子は親の鏡です。

いつでも温かい家庭環境と平和な人間関係、親子関係、友人関係、国家関係を作り上げたいものですね。