受難の主日/枝の主日(C年)の説教=ルカ23.1~49

2013年3月24日

寄り添うイエス今日からいよいよ聖週間に入ります。毎年のことながら、同じ典礼季節はめぐってきます。ただそれだけで終わっているとすれば、なんともったいないことでしょうか。

今年の桜は、例年になく開花が早く来ました。花見の時期を計画していたみなさんにとりましては、少々の狂いが生じたのではないでしょうか。桜の開花も毎年のことですが、どのように楽しもうかと思案し、その実現のために労を惜しみません。普通はそうです。自然界からいただいた恵みの時を精一杯楽しむために、新たな活力を養うために努力するものです。

ところが、信仰の世界になると、大きなブレーキがかかり、折角のチャンスを生かそうとする努力が目覚めないのです。楽しさが、活力が実感できないからでしょうか。実生活の中で、生きるという観点からして、さほど、影響力が無いからでしょうか。昔も今も、人は何かのしるしを求めたがります。それが悪いことではないにしろ、外的なしるしが分かるまでの経過は無視されているに等しいのかなと思ってしまいます。

神のいつくしみ、愛、思いやりは外に見えるものではありません。同じように、一人ひとりの信仰も見えません。しかし、感じることはできるのです。そして、神との絆の中身によって、大きな変化も現れます。

その絆の中身の一つが「ゆるし」ではないでしょうか。神は決してゆるすことを諦めない方です。むしろ、ゆるしを乞う方のわたしたち人間が諦めてしまうようです。今日のルカによる受難物語では、ひとりの犯罪人が「あなたのみ国においでになるときには、わたしを思い出してください」といって、ゆるしを願っています。つまり、彼にとってイエスというメシアは、十字架から降りたりはせず、十字架に留まったままのイエスの中に、真の救い主を見ていたのではないでしょうか。

当時の一般的なユダヤ人、兵士たちの考える現実的なメシアのほうが分かりやすいです。ところが、実際のメシアはわたしたち常識の世界では、その範疇に入ってこない。

今年も同じく聖週間がやってきただけではなく、一つの点に注目し、飛躍を願う祝日、聖週間にしたいものです。「ゆるし」という恵みは、それなくして今の「わたし」はないのではないかと思います。毎日ゆるされ続けています。ある女性が言われたそうです。「主がすべての人をゆるさないなら、世界は存在することはないでしょう」と。

「ゆるし」をキーワードに、神との絆を見直し、深めていきたいです。神に感謝!