年間第10主日(C年)の説教=ルカ7.11~17

2013年6月9日

寄り添うイエス人はみな、「恩人」と呼べる方をお持ちではないかと思います。どのような恩人であるか、その中身はそれぞれであるでしょうが、「今ある自分」を考えますと、恩人の関与の大きさに気付かされることがあります。

親はどうして汗だくで疲れもいとわず働いてくれるのでしょうか。それは、苦労しても文句も言わず働くエネルギーの源が、「子どものため」であるといえるでしょう。子どもの人生が開花し、幸せになっていく、親はそれを夢見て、また支えとして生きているからでしょう。それが普通の親子関係だといえないでしょうか。

それが自分よりも早く、子どもを死によって失うことは、生きることへの失望を助長させたとしても不思議ではありません。わたしたちの身の回りにもこのような方がいないとはいえません。その時その方とどのように接しますか。あるいは接してきたでしょうか。

今日の福音では、イエスさまがこうしたゆきづまったある母親の心を察して、そのあわれみを示されるのです。人の悲しみ、痛ましい姿を見て見過ごしてはいられないイエスさまのやさしさがうごめきだしたのでした。しかも、癒やしを頼まれてもいないのに、自ら主導権をとり奇跡を行います。その動機は前述のとおり「憐れに思い」から出てきたものです。もっぱら母親のために行ったしるしです。彼女を見て「もう泣かなくともよい。若者よ起きなさい」といって息子を母に返されました。

当時の社会環境からいって、女性、しかもやもめ暮らしの女性が登場して、しかも、イエスさま独自の判断と行動を取られることは、非常識的ではなかったのでしょうか。やもめの身分は、社会的に社会の隅に追いやられていました。そのような人が桧舞台に登場するのです。これだけでも驚きなのに、息子のいやしまで実現したのでした。

これには周りの人びとも「みな恐れを抱き、神をほめたたえた」のでした。同時に、イエス・キリストは自分たちによろこびを与えてくれる方であるということに目覚めてきたのです。いまやっと、神は自分たちを祝福のうちに救いの手を差し伸べてくださったのだと判断してしまいました。

事実、イスラエルの人は自分たちの苦しみから神が救い出してくれることを、ずっと期待してきたのです。ここにイスラエル人の「信仰の歴史」があります。

わたしたちも日常の中で、神の具体的な関与に気づきたいですね。その時、自分は嬉しかったのか、辛かったのか、感じたことを具体的にイメージして前に進みたいです。そうすれば、もっとイエスさまはわたしたちに近くなるのではないでしょうか。生きることは、その人との関係に影響されます。神と人と、・・・。