年間第11主日(C年)の説教=ルカ7.36~8.1~3

2013年6月16日      

寄り添うイエス人としての生き方はそれぞれです。どの生き方が幸せなのか、その人にしかわからない世界といえます。その生き方によって、その人の「タイプ」が決まるような気がします。悲観的なのか、楽観的なのか、はたまた、じっくりタイプかあわてんぼタイプなのか。

いずれにしても、自分の周りには楽しい人、うっとうしい人、いろいろな「タイプ」の人がいます。どのような人であれ、「わたし」の成長のために必要な方々です。どうしてかといえば、基本的に「わたし」は他者に向かって開かれた存在であり、他者とのかかわりなしに「わたし」ではありえないからです。だからこそ、一人ひとりの個性は、人類の大きな財産、宝物なのです。

今日の福音には、イエスさまを中心に二人の人が登場します。この二人はまったく違った「タイプ」の人です。一人はファリサイ派のシモンです。会食にイエスさまを招いた人です。当時の同じ境遇にあったグループの人から見ますと、社会的にも宗教的にも非の打ちどころのない人でした。現代社会にもこうした人びとはたくさんいます。いつの時代も同じですが、その人の心の中は外に見えません。だからこそ、見せ掛けか本心かがわかりにくいのです。特に処世術に長けている人は、・・・。といっても断言はできません。

もう一人は「罪深い女」です。周囲の人からは冷たい目で見られ、社会の隅に追いやられ、彼女はといえば、良心の呵責にさいなまれる日々だったのです。その日はかねてからうわさを聞いていたイエスさまが自分の村においでになるということで、自分のすべてをさらけ出すことにしたのでした。周囲の人の目を恐れることなく、しかし、イエスさまの後ろから足元に近寄ったのです。

イエスさまは「彼女は多く愛した。彼女の多くの罪がゆるされた」といわれます。今日の話の中にあるメッセージは、「愛とは、自分のすべてを愛する相手の前にさらけ出し、開いて見せること」であるといえます。「罪深い女」は自己をイエスさまの前にさらけ出すために何の邪魔物もなかったのでした。シモンに欠けていたものでした。つまり、イエスさまを招きながら、自負心と知性でつくりあげられてきたシモンの人生が、自分をさらけ出すことを邪魔したのでしょう。

わたしたちもたくさんの方の助けと支えをいただきながら生きてきました。「わたし」はどのような「タイプ」なのでしょう。裏切られることのない神の前では、すべてを開きたいですね。