年間第12主日(C年)の説教=ルカ9.18~24

2013年6月23日

寄り添うイエスご当地のテレビ放送局の番組の中で、「10年後のわたしへ」の短いコーナー枠があります。また、「わたしの宝もの」といって、赤ちゃんの紹介をしたりしています。ローカル性があってホットな気持ちにさせてくれます。こう感じるのはわたしだけでしょうか。
ずいぶん前ですが、東京の友人が鹿児島に来た際、民放のラジオ番組を聴いて、鹿児島弁による放送、番組登場の二人の掛け合いを聞いていて、新鮮さを感じたといって驚いていたのを思い出します。意味はわからなかったけど、地元の素朴な雰囲気を感じたそうです。

先の「わたしの宝もの」では、子どもの名前の由来なども紹介されています。親は、いつの時代もわが子に託す思い、心があるものです。大きくなって名前の由来を伝えるのでしょうね。それまでの子の育ちはいかに、また、親としてのかかわりはどうでしょうか。双方とも満足できる人生であることと期待し、願いたいものです。

ところで、イエスさまと弟子たちの関係の中でも、親子と同じような期待と役割があったようです。イエスさまはどのように弟子たちの「弟子育ち」をなし、弟子たちはいかに師弟関係を構築していったのでしょう。今日のルカの福音では、その一部を垣間見ることができそうです。

宣教から戻ってきた弟子たちを、イエスさまは人里はなれたところに導きます。休むためです。「人里はなれたところ」はルカにとって「祈り」と結びつく大事なところです。

事実、イエスさまが何か重大なことを決定されるとき、いつも「人里はなれたところ」にいかれます。そして祈って何かの行動を起こされます。イエスさまにとって「祈り」は心を憩わせ、穏やかにし、新たな鋭気をいただくおん父との語らいのひと時だったのです。

「一家団欒」という言葉は死語になったのでしょうか。そこには自分をさらけ出し、互いを受け止めあえる雰囲気と心の姿勢があります。こうして新たな次の活動への充電ができます。

バランスのとれた活動と祈り(休憩)こそが、使徒としての、キリストの弟子としての生きざまといえます。いわば「動と静」のバランスです。それにプラス、自己奉献といいますか、自己放棄の心が加わるようにとイエスさまは望まれます。これら全体を含めて全人類に見せてくださったのが十字架です。

社会の喧騒から抜け出し、燃料補給をしっかりとしながら、新たな歩みを始めましょう。