年間第14主日(C年)の説教=ルカ10.1~12、17~20

2013年7月7日

寄り添うイエス我が国におけるキリスト教の始まりは、申し上げるまでもなく、1549年のフランシスコ・ザビエル渡来による宣教活動によってであります。以来、現在に至るまでの間、どれだけの宣教師が来日し、イエスさまの福音を伝えるべく活動してくれたでしょうか。その力添えに感謝するとともに、今の教会の姿をどのようにつくりあげるのかは、わたしたちの大事な任務であります。

内閣総理大臣が任命した大臣が、何か不祥事を引き起こしますと、任命責任が問われますが、その度に思うことは、先輩大臣たちが判例を示しているのに同じようなことをするとは・・・、ということです。こと政治の話になりますと、民衆も寛大になるのでしょう。「みそぎ」を終えたということになりますと、それまでとは真反対の言動が平気で登場し、まかり通るのです。

ところが宗教の世界ではそうであってはいけないのです。というより、そもそも「みそぎ」なるものはその人の一生をかけて行っていく継続的な「業」です。

わたしたちの日常には宗教と社会生活の分離があるように思えて仕方ありません。わたしたちの日常の一挙手一投足にその人の信仰性が込められているはずです。

特に社会的に「権威」をいただいた人はそうでしょう。選ばれる、任命を受けたということから権威が発生します。その権威は、実は「奉仕する」ためのものであるのに、自分の欲望の念と結びつきますと純粋性をむしばみ、堕落した言動に移行してしまいます。

今日の福音はこのあたりのことを指摘しているように思えます。つまり、新たに72人が派遣されます。まず、祈りなさい、願いなさいと言われます。救いに飢えている人がいかに多いことか、そういう人々に目を向けることができるように願いなさい、といわれるのです。辛さを、貧しさを共有できるように祈りなさい、と言われます。

弟子たちも「選ばれた」ことによって権威をいただきましたが、派遣された自分よりも派遣してくださった方にこそ、すべての宣教活動の源泉があるのですよということでしょう。人間が行う活動はいつも危険が伴うからです。

それでも、すべてのことを通して「教会の姿」はつくられていきます。絶えず人としての原点に戻ることを大事に生きたいですね。