年間第19主日(C年)の説教=ルカ12.32~48

2013年8月11日 

寄り添うイエス過去に起こった悲惨な出来事、自然災害、戦争を思い起こさせる日が近づきますと、「伝える」「風化」「平和」「記憶」などの活字が新聞紙上を賑わせます。誰でも、どの国も平和安寧な生き方、社会を望んでいることに間違いはないと思います。

毎年のことながら、この8月は「戦争」「敗戦」「被爆」また、地域によっては自然災害の被害にあわれたあの日を思い起こしてしまいます。当時の体験者が少なくなっていく中で、記憶の伝達、風化させないために記録に残したり、平和運動の継続を叫んだり、さまざまの取り組みが報道されます。

とくに「平和」な社会の構築については、人間一人ひとりの考え方、感じ方が違いますと、平和そのものについての一致した考え方が望めませんので、いつまでも課題として残されていきます。特に国政に従事する人は、平和の選択を誤らないように、自我だけを主張しても、対立こそ生じても平和安寧な毎日をつくり上げることは至難の業です。

わたしたちは大きな力の前では、どちらかといえば、沈黙してしまう人が多いのではないでしょうか。だからこそ、権威の座にある人は、こうした小さな人々に配慮していく必要があります。彼らは、本当は社会の、国の宝です。聖書の中で、イエスさまの弟子たちは、実に弱い、権力のない「小さな群れ」でした。しかも、知恵あるものもいないし、財のある人、地位の高い人も、弟子の中にはいませんでした。

しかし、イエスさまは彼らに、自分の亡き後、すべてを引き継ぎその任務を任せることにしていたのです。だからこそ、この小さな群れが大きな影響力を与えることができるようになって欲しかったのです。そのために、これまでにない大胆な弟子たちへの要求を示したのでした。

「持物を売り、貧しい人に施しなさい」と。これほど単純で明快な神を証する道はないでしょう。これを実現するのがいかに難しいのか、今のわたしたちにとってよくわかっています。が、弟子たちはそれを実践し、わたしたちに模範を残してくれました。

その生き方は、「神がすべてである」ということです。一方、わたしたちにとっては「お金がすべてであり、地位、高学歴が第一である」という社会の流れを断ち切ることが、まず大事な作業になるのでしょうか。

「政治は駆け引き」だとよく聞きます。そこから何が出てくるのでしょう。平和を希求しながらも平和憲法をどのようにいじるのでしょうか。小さな群れであっても大きな力になることをどのように表現すればいいのでしょう。