年間第20主日(C年)の説教=ルカ12.49~53

2013年8月18日    

寄り添うイエス毎日、こんな暑さと、場所によっては豪雨が続きますと、生きる気力すら、けずられていくような気がします。連日の報道では、初めての体験だ、と口々に話される人びとばかりです。自然界の脅威の前では、人はごく小さな、それでいて無力な存在でしかないようです。現代の「受難劇」(?)です。

人類の世界では、他者から評価されてその人の社会における存在価値が見えてきます。いくら自然界の世界では「無力」であっても、小さいながらも、大きなことができる人間でもあるのです。その間、たくさんの失敗を重ねながら大きくなっていきます。

イエスさまの評価も、その時代の人から、豊かに、魅力的であるとして評価され、受け入れられていました。特にその人格の魅力に惹かれた人が多かったようです。中には、自分の人生をかけようとする人々も現れたのです。

しかし、その理解力に関しては、どこか地上的(世俗的)で、利己的で、自分さえよければそれでいいのだという雰囲気を感じさせるものでした。結局、最終的には人びとから拒否されたといえます。その証しが十字架に死んでいくイエスさまの姿にあります。

「わたしは地上に火をつけにきた。その火がすでに燃え上がっているように、わたしはどんなに望みをかけているか」と、イエスさまがおっしゃるとき、それは、神と人々に対するイエスさまの真実の愛のあふれであったのです。しかし、イエスさまの愛のあふれは人々にそれとして受け止めてもらえなかったのでした。

同時に、ご自分の宣教活動が功を奏さなかったことからくる苦悩の言葉でもありました。わたしたち人間はそれを「愚痴」といいます。イエスさまにとっては、また、真理がゆがめられて受け止められたという誤解からくる苦しみでもあったのでは、・・・。

わたしたちは誤解を解こうともがきますが、イエスさまは粛々とご自分が歩むべき道のりを進みます。ここに、イエスさまの卓越さと優しさがあります。わたしたちには、いつも、事が終わってから気付くのです。イエスさまは人の評価を気にしません。