王であるキリスト(C年)の説教=ルカ23.35~43

2013年11月24日

寄り添うイエス今日の主日でC年の典礼暦が終了します。今年はルカの福音書が朗読されてきましたが、典礼暦の最後の主日は、俗に言う「天国どろぼう」の話で締めくくられています。ここに、ルカによる「メシア観」が表されているのではないかと思います。

わたしたちは、誰を取り上げても、完璧な立派な生き方をしていると、人前で自慢できる人はいないのではないでしょうか。限りなく“アバウト”に生きています。それだけに相手の“アバウトな生き方”にも、理解を示すことができます。事実はそうなんですが、ときどき「変な虫」が動き出すのです。

「利己主義」という虫です。相手をこき下ろし、自分を、なにがなんでも正当化していく「強烈な虫」です。 このような現実を抱えているわたしたちであっても、イエスさまからの救いへの招きに応えるのに、遅すぎるということはないのです。命があるということは、その実、応答する機会をいただき続けている事の証明でもあるからです。

ある時を見逃してしまったとしても、次のチャンスを期待し、回ってきたときに応答すればいいのです。 ルカが伝えようとしているイエスさま像(メシア)は、このことではないでしょうか。つまり、死を目の前にしたぎりぎりの瞬間でも、回心するのであれば、イエスさまはその人を「思い出してくださる」のです。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と。

問題はわたしたちの方です。神が忍耐強く、あわれみ深い方である一方で、わたしたちがゆるしを求めるのに「倦む」ことです。神は倦むことなくわたしたちをゆるして下さいますが、わたしたちはゆるしを求めることに「飽きてしまう」のです。「あわれみ深いかた」ということがどのような内容を示されるのか、じっくりと知る必要があります。 神とわたしたちの縦の軸と横の軸の真ん中にイエスさまがいて、その視線とあわれみの心のまなざしは、360度に展開されます。

王であるイエスさまの権威をもって、豊かさ、愛しみを遺憾なく発揮してくださいます。その視線の範囲の中で、わたしたちは救いへの機会をもらい続けているのです。真の王は、威張るのではなく、まさに、じっと「待ってくださる」方なのです。