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年間第7主日:不調の時に神を求める祈りは人間の渇き、普通の姿

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年間第7主日(B年)の説教=マルコ2.1~12

2012年2月19日

主との出会い

「無病息災」「順風満帆」という表現は、わたしたちの人生の中で実現させたい強い願望でもあります。ところが、いつもそのようにはいかないので苦労が絶えないし、新たな自己発見にもつながっているのですが、それでも万事好調でありたいのです。

でもわが人生をふりかえってみますと、順調でないときのほうが多いのではないかと思ってしまいます。つまり、成長のためには好調でない時期があることが功を奏するということでしょうか。好調時には見えなかった、気付かなかった人間の弱さ、自己の醜さ、人生の行き詰まり等を知らされます。

だからといって、その苦しさの前に観念するのかといえば、そうではなく、もう一度幸せな人生を取り戻したいとの思い、願いが勝ってしまうのです。そのためのあえぎが続くのです。これがまた人間の普通の姿でもあります。

今日の福音をよく見ますと、イエスさまにとって、病人さんとの出会いは、単に病の癒しだけでは終わらなかったのでした。幸せを願う中風の人の心には、神を求める祈りがこめられていることに気づかせてくださったのでした。わらにでもすがりたい一心で神に近づくことはあっても、非難されることではありません。でも、それだけでは真の救いにはなりえないでしょう。それでも、神にたどり着くことはできます。否、辿り着かせていただけるのです。

今日の福音に登場する中風の病人さんも、イエスさまがメシア、救い主であることを知っていてイエスさまの前に出ようとしたのではないでしょう。癒やされたい一心でそれこそ、押しかけてきたのであろうと思います。その病人さんにイエスさまはおっしゃいます。「子よ、あなたの罪はゆるされた」と。イエスさまは彼の中に神への渇きを感じ取り、彼を神にひきよせてくださったのです。

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そこで、彼の、イエスさまの前に出た行動は高められ、本人さえも気づいていなかったかもしれない神への道を、彼がこのことに気づかせていただいたとはどこにも出てきませんが、発見したのではないでしょうか。神はさりげなくわたしたちを引きよせてくださいます。わたしたち人間に強いることなく、わたしたちを肯定し、高めてくださいます。だから、苦しいときの神頼みも意味が出てきます。

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