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主の復活:死は人の最終章だがイエスは常識を超えたところに

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主の復活(B年)の説教=ヨハネ20章1節~9節

2012年4月8日

主との出会い

人間だれでも年を重ねていきますと、体のあちらこちらに、今までに体験したことのない現象が出てまいります。程度の差こそあれ、誰にも例外なくおとずれてきます。何も肉体的なことばかりではなく、日常、いわゆる「想定外」の体験もたくさんあると思います。

この「想定外」のもつ意味は、わたしたちにとって日常的ではないという意味と、歴史的にみて起こったことがない、という意味があります。考え方、感じかたには個人差はあるでしょうが、・・・。

安息日の明け朝早く、マリア・マグダレナはイエスさまのご遺体を収めていた墓に行きました。あるはずのご遺体が見つからないのです。イエスさまの死後、ユダヤ人の習慣どおりに、香料を塗り、覆い布でつつみ、新しい墓に納めたはずです。マリアも立ち会って確認をしたはずです。

しかも、ユダヤの指導者たちは、遺体が盗まれることを恐れ、墓の入り口を大きな石でふさいでしまったのでした。念のため、番兵たちまでも配置しました。それなのに、だれも気づいていないのです。まさしく「想定外」のできごとでした。

いつの時代もそうでしょうが、特に、お世話になった人に対しては、どんなことがあっても礼をつくしたいと思うものです。マリアにとって、イエスさまはいろいろな意味で恩人でした。ですから、いまマリアにとってできることは精一杯しておきたいのです。彼女は納得できるまで「主を墓からもちだした人」を確かめ、捜しつづけます。

しかし、彼女が求める場所、考えるところにイエスさまは発見できないのです。つまり、人間の常識の世界の中にイエスさまはおられないのです。人間の常識を超えたところにイエスさまは存在されるのです。そうあらしめたのはほかでもないおん父なのです。

だれにとっても、人間的にみれば死はその人の最終章です。イエスさまはそうではなかったのです。実は、イエスさまの中にわたしたち一人ひとりのあるべき姿が秘められています。いつでも、暗闇を体験しながらそれを乗り越えることができるのは、「上のものに心を向ける」イエスさまの生きる姿があるからです。そこには「想定外」なことはなくなるのです。復活はすべてをつつみこみ、意義あるものとします。神はすべてをご存知なのです。

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