年間第14主日(B年)の説教=マルコ6.1~6

2012年7月8日

主との出会い

またまた、大津市で中学2年生の自殺に関する新たな情報がもたらされました。同級生による「いじめ」がその原因であるという因果関係が模索され始めたのです。このような問題が、事件が起こるたびに、わたしはうんざりすることがあります。

当事者の命そのものはどうなっているのか、ということです。亡くなったかたのことを思っても、その人が元気になって戻ってくるわけではありませんが、起こったことの処理だけに終始し、人の命が第2第3になっていないかと。命の大切さは、学校の教室だけで受ける教育ではなく、日常の生活の中で、ごく卑近な身の回りでなされるものです。何も命の大切さのみでなく、子育て、人間の育ちの基本は、設定された学校のカリクラムにあるのではなく、一人ひとりの中にあるのです。

こうした思いの人が集まっているところの「常識」は温かくて、気持ちがいいものではないかと思ってしまいます。そこには自ずと平和な穏やかな日々が待っているような気がします。

ところが、現実はそうはいかないのです。市教育委員会は、「自殺との因果関係は不明」「事実確認できなかった」「いじめた側にも人権がある」として直接確認していなかったということです。一部では、担任はいじめを相談されていたとも言われています。未確認情報がありすぎて、本当のことだけを教えてほしいとの生徒の声が上がっているようです。

人間は自分が不利な立場に立たされるとき、また、予期しない出来事が自分の目の前で展開されると、我を失い、自分の「常識的な」世界の中にこもってしまわないでしょうか。つまり、なんとなくとりつくろってしまっている自分を発見しませんか。

今日の福音の話に出てくるイエスさまの郷里の人々にも同じことが言えるかなと思いました。

人々はイエスさまの説教に驚きます。常識を超えた力強さがあふれていたからです。いうまでもなく、人間の常識でははかり知れない異質なものを、人々は感じ取っていたのでした。にもかかわらず、自分たちの日常を壊したくない、むしろ安定した平凡な生活にひたりきりたかった彼らの思いが、イエスさまをがっかりさせます。

人間の常識はもろい世界です。誰もが分かっていることですが、あえて挑戦しようとはしません。挑戦してはじめて見える世界があります。それをイエスさまはわたしたちに体験してほしかったのでした。まだ間に合います、・・・。