年間第17主日(B年)の説教=ヨハネ6.1~15

2012年7月29日

主との出会い

わたしたち人間は、他の被造物よりはるかに優れた存在であるとはいえ、常に「限界」という壁を感じながら日々を生きております。さらに、自分たちが発明し、生活に便利なものを開発していきながら、どこかでそのものに支配されているような気さえします。いわゆる「浮かれている」のです。

誰にでも「物欲」はあります。しかし、無制限にそれが叶えられるということはあり得ません。またそのものを得るに際し、他の人に負担をかけてしまったということもあるのではないでしょうか。つまり、自分のための合理性だけを追いかけていくと、どこかで犠牲者を出してしまいます。そのうち、それすらにも気づかない人間になってしまいます。

これはイエスさまが望むところではありません。目先のことだけを追い求めていくと、日常的な世界を超えて、共鳴し合える接点に辿りつくことができません。ぐずぐずしている民衆を前に、そこでイエスさまは「奇跡」を行われたのでした。奇跡はしるしです。今日のイエスさまは何の「しるし」なんでしょか。民衆は、それでも、日常性の中に留まったままです。そのほうが安心ですし、確実な選択です。

さらに民衆は、イエスさまの話を聞くために集まった上に、自分たちの王となってくださいと迫ります。ローマの圧政のもとにあった彼らにしてみれば、豊かな食べ物があることが現実的に大きな救いの慰めであったのでした。「奇跡」の中に、イエスさまのもつ力強さを見たのでした。つまり、ローマに代わる地上の王国をつくるために、彼らはイエスさまを利用しようとした(?)のでした。

そこでイエスさまは彼らの前から姿を消します。パンの奇跡は、「今」人の腹を満たすだけの力があるということを見せるのではなく、「永遠に」命のパンであることを人々に分かってもらいたいとのイエスさまの祈りがありました。

わたしたちも、ひょっとして、「今」パンをください、と言い続けているのかもしれません。イエスさまは決して強要はなさいません。わたしたちが分かり、受け止めることができるまで、じっと待ってくださいます。与えられた時を大事に過ごしましょう。少なくとも十分な備えをしつつ、・・・。