復活節第3主日(A年)の説教=ルカ24・13~35

2011年5月8日

人との出会いにはいろいろな内容の出会いがあります。その人に会ってその話にひかれ、そのしぐさにあこがれ、この人こそ自分の力になってくれる方であると思い、その出会いは自分に新たな勇気をくれます。こうした出会いが多い人は、人との交流が楽しいものになっていきますが、その逆の人にとっては、引きこもりの原因になっていきます。人との交わりを拒否していきます。本来の人としての育ちにブレーキがかかります。

いずれにしても、影響力のある人の存在、不存在は「わたし」にとって、生きる力となるかならないかの問題です。その人に期待するものが大きかったからです。自分の目の前からそういう人がいなくなるというのは、悲しみと共に絶望感に襲われます。

イエスさまの死は、まさに弟子たちにとって挫折を感じさせる出来事でした。彼らの人生をかけたイエスさまの不存在は、期待を裏切られたのみならず、人生の敗北をも感じさせる大きなことでした。エマオに向かう二人の弟子は、すべての弟子たちを代表しています。

失ったものが大切なものであればあるだけ、悲しみも、苦しみも深く、大きいものとなります。へたをすれば、過ぎ去った体験の中にとどまったままになってしまうことも稀ではないでしょう。そして、精神が、心が安定しなくなります。新たな悪循環が始まります。

そのような状態ではいけないと、イエスさまはお叱りになります。「信じるに鈍い愚かな者たちよ」。弟子たちの心のあり方、メシアへの思い違いを嘆きながらも、ふさがれた心を開かせようとなさいます。

人間的にみれば、絶対敗北の象徴である「十字架」上の死の中に、本当は価値があるんだということを気づかせようとします。しかし、なみたいていなことではありません。

イエスさまの復活は、苦しみや悲しみを、そのままにしておくのではなく、生き生きとした命への道となるということを悟らせ、意義あるものとしてくださったのでした。深い闇がきても、悲しさが連続しても、希望ある命への道を歩み続けましょう。神に感謝!