主の公現(A年)の説教=マタイ2・1~12

2011年1月2日

神のみことば

わたしたちの周囲で“鮮烈デビュー”なる言葉が行き交うことがあります。それまでは、無名の、人目を引くことのなかったある人が、いきなり注目の的になってしまうのです。

芸能界であれ、スポーツ界であれ、毎年そのような人が登場することを、人はどこかで期待しています。そして、その人に確信に満ちた期待を託していきます。その期待に応える人もいれば、つぶされていく人もいます。

昨年注目された一人にフィギュア・スケートの村上佳菜子選手がいます。浅田真央選手を目標にがんばってきたといいます。具体的な目標を持って前進する人は、確実に成長します。次世代の中心選手になっていくのでしょうか。そうあってほしいものです。

今日の祝日は、まさに、イエスさまが世に“デビュー”なさった日であります。ヘロデが探しまわるほどに強烈な公現でした。しかも、ユダヤの世界では偶像礼拝者と決めつけられ、異教徒の中でも、もっともひどいあやまりの中にいる人々と思われていた「博士たち」にご自分を現されたのです。ユダヤ社会で軽んじられていた人々の代表者といえます。

イエスさま誕生の環境は、人生の始まりから「小さな人々」に向けられたものでありました。「労苦する人、重荷を負う人は、みなわたしのもとに来るがよい」(マタイ11章28節)。過酷な人生の中で、才能や健康に恵まれなかった人々、社会の隅に追いやられ、強い者たちの、ある種、犠牲となっている人々、こうした人々の労苦、重荷を背負うために、イエスさまはお生まれになったのでした。

「博士たち」(マギ)も社会のどん底にあって、傷ついた心を癒し、安心することがなかったのでしょう。真の安らぎを求め、ほっとできるイエスさまの招きにすべてをゆだねたのです。そのとき持参したのは、彼らが日常使っていた商売道具でした。彼らは、それらを奉納することによって、これまで歩んできた人生を捨て、まったく新しい生き方を目指す意志表示をしたのでした。

そっと聞いてみたいですね。「どうして、そんなに遠い国からベツレヘムに来たの」。そこには、彼らさえも気づいていない「大いなるものの意志」が働いているのだと思います。その方に注目できるほど、彼らの心は平和と安心を求めていたのでしょう。この心からの渇きこそが、神の働きを容易にします。

わたしたちが心の渇きを覚えるときこそ、神は近くにおられます。新たに「わたし」にとってのイエスさまの公現(デビュー)となるのでは、・・・。