聖家族(A年)の説教=マタイ2・13~15、19~23

2010年12月26日

神のみことば

先日、幼稚園の保護者にお話しする機会がありました。その時に投げかけたことは、「親孝行」するお子さまが育ってほしい旨のお話でした。何人かの保護者がうなづいてくださいました。

その昔は、お金はない、食べ物もふんだんにあるわけではないのに、不幸せだった記憶はありません。親子の距離が近かったのではないでしょうか。つまり、親に甘えたいときに、親が近くにいたということです。何も物理的な面だけでなく、心理的にも。幼児教育の時点で大事なことは、「親子の距離感」であろうと思います。

親が何を大事にし、その家庭を築こうとしているのか、子どもには無言のうちに伝わります。「家庭は、社会的、文化的、道徳的、霊的教育と成長のための第一の学びやとなります」(教皇ベネディクト16世「世界平和の日」メッセージ)。

今日は聖家族の主日です。聖家族を一言で表すれば、「貧しさ」であるといえます。今年は鹿児島ザビエル教会の玄関正面に「馬小屋」が登場しました。文字通り貧しさを表現しております。ゴミ捨て場にあった木片等を拾ってきての作でした。ある方は「あまりにもみすぼらしい」と最初のころは言っていたのですが、作者の趣旨が分かってからは賛辞の言葉が返ってきました。

現代の家庭はどうでしょうか。物質的な面から言えば、ヨセフの時代とは比べ物にならないほどに裕福です。中学生、高校生のグループに自分がほしいと思うものを20書いてくださいと頼んだところ、結果は次のようでした。「やせたい、美しくなりたい、お金がほしい、ガールフレンド、ボーイフレンドがほしい、楽しい生活をしたい、試験に合格したい、お金持ちと結婚したい、よい会社に入りたい、・・・などなど、ほとんどが即物的な幸せを願ってのものでした」(森一弘司教調べ)。

経済的な豊かさがもたらした人生の価値観は、このようなものです。資産、財産があってはいけないと言うのではなく、また、経済的に豊かな生活を願ってはいけないというのでもなく、人間の本心には、人とのかかわりの中で、豊かになっていくものが必ずあるのに、と思うのです。それに気づいていないだけの話です。そして、その出発点にあるのが「家庭」での交わりです。人間の真実の価値への自覚、人への真の愛がない家庭には、本当の安らぎ平和も生まれてこないのでは、・・・。

それはひとつの現実、「神から与えられたいのちである」という自覚を持つことから始まります。聖家族の一人ひとりは、何よりもこのことをはっきりと意識していたのです。少しずつでも、このことを実現させたいですね。

主よ、わたしたちの遅々とした歩みを祝福してください!