年間第16主日(A年)の説教=マタイ13.24~43

2011年7月17日

神のみことば

子育て奮闘中の親御さんの中に、わが子に対して絶えず声掛けをしている方を見受けることがあります。必死で、一生懸命な姿はよくわかりますが、言葉数が多いということは、逆に、子育てを邪魔していることにならないだろうかと思うことがあります。

先日、鹿児島市の科学館に幼稚園の子どもたちと星座のアニメーション映画を見に行きました。子どもたちがしばしの休憩を取っている間、わたしは、自販機で冷たい水を購入するためにロビー階に降りました。そこに、2~3歳くらいの男の子が一心不乱にハンドルを回している姿に出くわしました。

鉄製のロープがハンドルとつながっていて、ロープのある場所に来ると皿状の器があり、ボールを拾います。それが頂上に行くと、ボールが外に押し出され、バスケットボールのゴールポストのようなものを三回抜けて、最後にバスケットに収まるという遊び(?)です。

わたしはその子の動きに見とれました。10分あまり、ボールがどのように転ぼうと関係はありません。ひたすらハンドルを回し続けます。横でその姿を見ているお母さんも何も言いません。この関係に二人の信頼関係の深さを感じました。子どもは満足したのでしょう。母親の促しにのってその場を去りました。

親といえども、子どものやっていることを適切に評価することは難しいです。つまり、白か黒かの評価は、人間の領域ではないということでしょう。やはり、神の領域の問題です。人間が下す判断の基準は、いつも「自分」です。「自分」という名の人間は数多くいます。さらに、外側からのみ、その人の内側を見ることはできない業です。

イエスさまがおっしゃりたい今日のメッセージは、人を裁くことの危険性を指摘なさっているといえます。あの子どもが、一心不乱に同じ業に集中したように、わたしたちも、信仰共同体の中で、家族の中で、仕事場で、目の前にある活動に「わたし」を注いでみましょう。

人を批判するよりも、わたしたち一人ひとりがイエスさまとの出会いができるように祈りあい、また、お互いの弱さや過ちを背負いあっていくことができるのが一番です。毒麦の話は、このことを訴えているようです。