年間第21主日(A年)の説教=マタイ16.13~20

2011年8月21日

神のみことば

人はそれぞれに能力の違うタレントを持っています。だからこそ、人と人との交わりは意味があるし、学びあうところがたくさんあるのです。また、親しさの密度の深さ、広さ等如何で、相手に対する理解度に影響してきます。一般に言う「親友」なる存在は、その人との親しさの密度の濃さを表しています。また、「師弟の間柄」という表現にも、師匠と弟子という親しさがこめられているようです。

この点から言いますと、イエスさまとその弟子たちの間柄も、その親しさを表しているのではないでしょうか。福音書を注意深く読みますとわかるように、弟子たちには他の人々とは違ったイエスさま判断をしていきます。それがまた、「イエスさまとは何者」という問いに対する答えにもなっていくのです。

弟子たちは、他の人たちよりもイエスさまの近くにいてイエスさまにふれていますので、当然のことながらイエスさまの「正体」に関してより正確な判断ができます。そこから「信仰宣言」が生まれてくるのです。その最高の宣言が、今日のペトロの信仰宣言です。

弟子たちがそうであったように、今に生きるわたしたちもそれに続くようにと、福音書は書かれているのです。「以上のことを書き記したのは、イエスが神の子メシアであることを、あなたがたが信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によっていのちをえるためである」(ヨハネ20章31節)とヨハネは書いています。

ぺトロの宣言が尊いものとされるのは、天の父の権威によって保証されているからです。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いである。あなたにこのことを示したのは人間の知恵ではなく、天におられるわたしの父である」と。

ペトロはわたしたち信仰者の始まりです。ペトロの中にある強さと弱さ、美しさと醜さ、その中で彼の信仰は強められていったのでした。今に生きるわたしたちとて同じです。これが人の現実なのです。

心の奥では崇高な神を見つめながら、一方では平凡な幸せを求め、純粋な美しさを求めながら、汚い欲望に引きずられている自分を発見します。

聖と俗の入り混じった現実の人間の中に信仰があり、なんといっても、神の恵みに支えられながら、信仰を深め、語り継いでいくのです。神の力がそこにあるので、一見矛盾したかに見える世界でも生きる意味があるのです。