年間第27主日(A年)の説教=マタイ21.33~43

2011年10月2日  

神のみことば

今までも漠然と感じてきたことではありますが、最近はよく思うようになりました。どんなことかと申しますと、一つは、戦後教育はこれでよかったのかということです。また、教育の現場は、学校の教室現場だけではなく、人が普通に生きている現場にこそあるということです。大それたことを言える資格はありませんが、一国民として感じてきたことです。

戦争で敗北した日本は、経済的にも驚くほどの復興をとげ、それにつれて教育もそれに続けとばかり「受験戦争」なる言葉までが生まれました。そこから出てきたものは何でしょうか。すべてが悪いわけではありませんが、人間が軽視されているのではないか、ということが気になります。それは、「教室」という場所に教育の現場を閉じ込めてしまった結果なのではないかと、勝手に感じております。

言葉にしても、行い、振る舞い方にしても、それらはいつも「本番」なのです。生きることに“リハーサル”はないのです。わたしたちが生きている現場は、生々しい人とのぶつかり合い、感情のもつれから来る対立等、どろどろとした欲望が生きているそこで、どのように生き抜いていくかが試されているのです。自分の欲望のままの生き方を貫こうとするとき、その邪魔者を破壊し、抹殺するという形をどうしてもとってしまいがちです。これが一般の人々の現実ではないでしょうか。程度の差はあっても。

今日の福音にそのことをうかがうことができます。ガリラヤ地方は久しく外国の支配下に置かれていました。土地はもちろん、農作物も搾取されている状態でした。外国人の地主に対してよからぬ思いをいだき、暴動を起こすことも不思議ではありませんでした。

そうした現実の状況を背景にしたたとえ話です。現に生きている場でさまざまなことを学び、それがその人の人間性に反映されていきます。圧政のもとにおかれたイスラエルの人々は、被支配者の環境の中で育ち、感性を身につけていきます。

したがって、イエスさまのメッセージなど耳に入らず、ましてや心に届きません。「ちょうどめんどりが翼の下にその雛を集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それなのにおまえたちは応じようとなしなかった」(ルカ13章34節)と、イエスさまに言わせてしまうのです。

日常の生活の中で、出会ってきたイエスさまの言葉、行いの中に、その実、本当の救いへの道筋が示されていたのです。それを発見するのを妨げているものは何でしょうか。自分の心の奥をじっくりと眺めてみましょう。イエスさまはいつも、援助の手を差し伸べています。わたしたちが振り向くのを待っています。