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光の中にイエスの顔があるから—竹山昭神父の2016年夏期集中講座①

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2016年の夏期集中講座は、8月22日(月)から26日(金)までの予定で行われます。
5日間とも午前の部は10:00~12:00、午後の部は19:00~21:00まで同じ内容。

【2016年第1講】わたしはどこからきて、どこへゆくのか?

初日午前の部は、講話が約70分、その後質疑応答の時間が設けられましたので、講話の部分だけ動画をアップいたします。

講話の動画

講話の骨子—配布資料から抜粋

わたしの命の始まり

  1. わたしの存在の始まりは・・・・
  2. わたしはだれからも「名指しで」望まれて命をはじめたわけではない!
  3. しかし、人はもの心つくとすぐ、「名指しでなければ満足できない」という、抜きがたい特徴を示す。私の命の始まりに見る現実との奇妙な不一致・・・。
  4. それでも不承知なら、”信じる世界”に答えを探すほかはない。(ただ信じる世界のことは立証できない)
  5. 「人間にはできることではないが、神にはできる」(マルコ10の27)誰でも説得できるのではないが、このことを受け入れる人のとって人生の意味が変わる。

共に歩む一生

  1. その人の一生は”名指しで望まれた存在”、”いつも自分を望んでいてくれるお方の眼差しの下で”の人生となる。
  2. 死は矛盾に満ちていて、怖い
     自己保存と成長という生命の本質と合わない
     人間の経験の埒外にある、だから怖い
  3. それでも、「名指しで自分を望まれた方」を信じる人は、死において「ぼく、きょう、うちに帰るよ」ということができる。
  4. この、「名指しで存在へと呼び出し、共に歩み、待ちいたもう」お方を、キリスト者は「私の創造主である神」とよぶ。
カトリックの教え
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この記事を書いた人
yaziro

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yaziroの名は、1549年聖フランシスコ・ザビエルを鹿児島に案内してきた薩摩の人・ヤジローにあやかっています。

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